人のための演奏。

演奏のスタイルって色々あると思う。


今私が求めてるのは、どんな演奏なのか。
どんな演奏がしたいのか。


自分はどんな演奏に心惹かれるのか。
そこからまずイメージは変わってくると思う。


自分のために演奏しているひとと、
人のために演奏する人と、その差はどのくらいでるのか。


まったくこれって音楽の方向性が違ってくると思う。


ある人は私にこういった。
「自分が満足いくことなんてなかなか出来ないんだから、
自分のために演奏しなきゃだめ。
人のために吹くなんて簡単なんだよ、
その人がよかったって言ってくれればそれまで。」
と言った。


まー分からなくはないけど・・・。


しかし、そいう言った人は、ある有名な音楽家に、
「マスターベンションな演奏は止めてくれ」といわれたらしい。
それだけ、そういう考えてること、むかている方向って、
見えちゃうんだな。


ステージに立つって、ほんとうに裸で人生語るようなもん。
すべて出る。


「人のために演奏する」ことは、簡単なのだろうか。
私は簡単じゃないと思う。


もちろん、自分が満足いくことなんて、多分一生ありえないし、
もしもありえたら、私はそれまで、だとおもうから、
自分が納得いくようにまずは演奏する、という目標は
当たり前だと思う。
自分が不本意な演奏した時は、聴いてくれている人にもそれは伝わってしまう。


しかし、演奏って、私が演奏すればいいだけじゃない。
お客様がいて、彼らとの空間と時間を共有して、
感動を共有する。
楽家って、そうじゃないのかな。


だとしたら、やっぱり、自分のためだけでなく、
人のためにも演奏するべきだと、私は思う。


演奏するということは、
その作曲家の考えたことを、
私の考えを織り交ぜてお客様に話す、ことでもあると思う。
自己表現のひとつだ。
それは、自分が表現してそれだけ、の一方通行のベクトルではなく、
空間を共有している人たちからのベクトルもあるのではないか。


実際、全員から感想を聞くわけではないし、
事実上は一方通行のベクトルだけど、
そのベクトルが、自分に向いているか、
それとも他の方角もむいているかって、かなり演奏が変わってくると思う。


自分のために演奏する、とか、
人のために演奏する、とか、
簡単に言うけど、難しい。もちろんどちらも。


でも、表現したいことがあって、
でもそれが自分が満足すればいいだけなら、ステージに立つ意味は、
薄れるのではないか、と思う。
無い、とは思わない。それを自分に向けて
ステージに立つ人もいるだろう。


けど、だれかに聴いてもらって、だれかと時間と空間を共有しているのなら、
かれらとコミュニケーションをとりたい、というのが、
自然な流れではないか。


やっぱり、そういうベクトルって、大事なんじゃないか。